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Weblio 辞書/雨森芳洲関係資料

송화강 2014. 12. 24. 15:18

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雨森芳洲

http://www.weblio.jp/content/%E9%9B%A8%E6%A3%AE%E8%8A%B3%E6%B4%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%B3%87%E6%96%99

 

雨森芳洲寛文八年一六六八)に近江国伊香郡雨森医師雨森清納の子として生まれたという。字は伯陽。俊良、東五郎と称し、誠清と名乗った。号は芳洲。別号窓・絅尚堂・斎・聚化軒がある。十八歳江戸へ出て朱子学者木下順庵の下で学んだ後、元禄二年(一六八九)、師の推挙対馬藩儒官として仕え江戸藩邸に住したのち、元禄六年対馬赴任した。以後歿するまで対馬に住み、六代藩主仕えた。対馬藩当時朝鮮との外交窓口となっていたが、芳洲は数度わたって釜山草梁倭館赴任し、その実務に携わった。また、正徳元年(一七一一)の第八次、享保四年(一七一九)の第九朝鮮通信使来日の際は対馬藩真文役(文書役)として江戸随行した。正徳元年通信使の時には幕府側の新井白石通信使国書日本国王号問題などで激しく論争した。
 芳洲は仕官直後から朝鮮語中国語習得励み後進のために朝鮮語学習書『交隣須知こうりんしゆち】』『全一道人【ぜんいちどうじん】』を著すとともに外交における相手国の文化理解主張した。享保十三年著した『交隣提醒こうりんていせい】』の中では「日本朝鮮とハ諸事風儀違ひ嗜好も夫ニ応じ違ひ候故、左様之所ニ勘弁無之、日本風儀を以朝鮮人へ交候而ハ、事ニより喰違候事多ク有之候」「誠信と申候ハ、実意と申事ニて、互ニ不欺不争、真実を以て交り候を誠信とは申候」と民族間の文化相違尊重し、信義を重んじた外交必要性を述べている。寛延元年(一七四八)、八一歳で孫涓庵に家督を譲って隠居し、宝暦五年(一七五五)、八八歳で対馬厳原に歿した。
 雨森芳洲関係資料は大正十五年に雨森家から芳洲会に寄贈された資料のなかから、芳洲自筆資料や関係の深い資料一括して指定したものである。
 著述稿本類に前述の『交隣提醒』『全一道人』のほか、藩政に関する上申書治要管見』、藩財政立て直し為政者心得説く『芳洲了簡書』、正徳元年新井白石朝鮮国書の書き替えを迫った問題に関する国書書改惣論』、対朝鮮外交人材養成するための教育課程とその説明書公私考式』、思想風俗教育中国語朝鮮語多岐にわたる漢文随筆集『橘窓茶話』等がある。
 文書記録類は、正徳元年通信使の国書書き替え等の経過と芳洲の幕府対す意見書『信使一件集書』、密貿易対する藩の態度非難して朝鮮方佐役の辞任申し出口上書享保六年雨森五郎朝鮮佐役被差免候節差出書付』、藩財政に関する意見書『芳洲覚書』、藩に人材養成のための学校設置建言する口上書学校事件(芳洲口上書)』、息男への家業家禄相続についての願書雨森芳洲口上覚』、京都報恩寺雨森氏一族の墓についての『京墓地ニ付遺書扣』等がある。
 書状類は、芳洲書状草案・控のほか、正徳通信使の製述官東郭の芳洲宛書状、正徳通信使上判事釜山訓導の玄道以の芳洲宛書状等がある。
 詠草詩稿類のうち、漢詩集としては、芳洲の朝鮮和歌について面目うかがえる『芳洲詩稿』、瀬戸内海航行の折の芳洲と長男海の詩収める瀬戸内海航行詩』、正徳元年通信使一行日本文人との唱和筆談記録『縞紵風雅集【こうちよふうかしゆう】』等があり、書幅としては、新井白石に贈った七律寄贈新井勘解由西京」、東郭が正徳三年帰国後芳洲に贈り、後に芳洲が識語を付した「東郭七律雨森芳洲識語」等がある。詠草では晩年研究始め和歌成果である『芳洲詠草』二二冊等が残る。
 肖像画は順庵が芳洲に賛を付して贈った「木下順庵肖像」、唐服をまとい儒巾をかぶる晩年の姿の「雨森芳洲肖像」がある。
 以上の雨森芳洲関係資料は、芳洲の外交藩政教育学問語学等の事跡を知る上で基本史料であり、子孫から伝来した一括資料として価値がある。また対馬藩朝鮮幕府との関係をうかがう上で興味深い史料を含んでおり貴重である

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