雨森芳洲は寛文八年(一六六八)に近江国伊香郡雨森で医師雨森清納の子として生まれたという。字は伯陽。俊良、東五郎と称し、誠清と名乗った。号は芳洲。別号に橘窓・絅尚堂・櫟斎・聚化軒がある。十八歳頃江戸へ出て朱子学者木下順庵の下で学んだ後、元禄二年(一六八九)、師の推挙で対馬藩に儒官として仕え、江戸藩邸に住したのち、元禄六年対馬に赴任した。以後歿するまで対馬に住み、六代の藩主に仕えた。対馬藩は当時朝鮮との外交の窓口となっていたが、芳洲は数度にわたって釜山の草梁倭館に赴任し、その実務に携わった。また、正徳元年(一七一一)の第八次、享保四年(一七一九)の第九次朝鮮通信使来日の際は対馬藩真文役(文書役)として江戸に随行した。正徳元年通信使の時には幕府側の新井白石と通信使国書の日本国王号問題などで激しく論争した。 芳洲は仕官直後から朝鮮語・中国語の習得に励み、後進のために朝鮮語学習書『交隣須知【こうりんしゆち】』『全一道人【ぜんいちどうじん】』を著すとともに、外交における相手国の文化の理解を主張した。享保十三年に著した『交隣提醒【こうりんていせい】』の中では「日本と朝鮮とハ諸事風儀違ひ嗜好も夫ニ応じ違ひ候故、左様之所ニ勘弁無之、日本之風儀を以朝鮮人へ交候而ハ、事ニより喰違候事多ク有之候」「誠信と申候ハ、実意と申事ニて、互ニ不欺不争、真実を以て交り候を誠信とは申候」と民族間の文化の相違を尊重し、信義を重んじた外交の必要性を述べている。寛延元年(一七四八)、八一歳で孫涓庵に家督を譲って隠居し、宝暦五年(一七五五)、八八歳で対馬厳原に歿した。 雨森芳洲関係資料は大正十五年に雨森家から芳洲会に寄贈された資料のなかから、芳洲自筆資料や関係の深い資料を一括して指定したものである。 著述稿本類に前述の『交隣提醒』『全一道人』のほか、藩政に関する上申書『治要管見』、藩財政の立て直しと為政者の心得を説く『芳洲了簡書』、正徳元年に新井白石が朝鮮国書の書き替えを迫った問題等に関する『国書書改惣論』、対朝鮮外交の人材を養成するための教育課程とその説明書『公私考式』、思想・風俗・教育・中国語・朝鮮語等多岐にわたる漢文随筆集『橘窓茶話』等がある。 文書、記録類は、正徳元年通信使の国書書き替え等の経過と芳洲の幕府に対する意見書『信使一件并集書』、密貿易に対する藩の態度を非難して朝鮮方佐役の辞任を申し出た口上書『享保六年雨森東五郎朝鮮佐役被差免候節差出候書付』、藩財政に関する意見書『芳洲覚書』、藩に人材養成のための学校役設置を建言する口上書『学校事件(芳洲口上書)』、息男への家業と家禄の相続についての願書『雨森芳洲口上覚』、京都報恩寺の雨森氏一族の墓についての『京墓地ニ付遺書扣』等がある。 書状類は、芳洲書状の草案・控のほか、正徳通信使の製述官李東郭の芳洲宛書状、正徳通信使上判事・釜山訓導の玄道以の芳洲宛書状等がある。 詠草、詩稿類のうち、漢詩集としては、芳洲の朝鮮と和歌について面目がうかがえる『芳洲詩稿』、瀬戸内海航行の折の芳洲と長男鵬海の詩を収める『瀬戸内海航行詩』、正徳元年通信使一行と日本文人との唱和筆談の記録『縞紵風雅集【こうちよふうかしゆう】』等があり、書幅としては、新井白石に贈った七律「寄贈新井勘解由在西京」、李東郭が正徳三年帰国後芳洲に贈り、後に芳洲が識語を付した「李東郭七律附雨森芳洲識語」等がある。詠草では晩年に研究を始めた和歌の成果である『芳洲詠草』二二冊等が残る。 肖像画は順庵が芳洲に賛を付して贈った「木下順庵肖像」、唐服をまとい儒巾をかぶる晩年の姿の「雨森芳洲肖像」がある。 以上の雨森芳洲関係資料は、芳洲の外交、藩政、教育、学問、語学等の事跡を知る上での基本史料であり、子孫から伝来した一括資料として価値がある。また対馬藩と朝鮮、幕府との関係をうかがう上でも興味深い史料を含んでおり貴重である |
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