http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
松島への渡航許可 in 1656
于山島が竹島ではないことは先に説明しました。それは即ち、韓国が近年におけるまで竹島を知らなかった事を意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。
隠州視聴合記 in 1667
隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
翻訳
(1) | 隠州(隠岐島)は北海中(日本海)にある |
(2) | これより南、雲州(島根県東部)美穂関まで35里。東南、伯州(鳥取県西部)赤崎浦まで40里。南西、石州の温泉津(ゆのつ)まで58里。北から東には行くべき地なし。 |
(3) | 北西の間、二日一夜の所に松島(現・竹島)があり、また一日程行くと竹島(現・鬱陵島)がある。 |
(4) | 俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。 |
(5) | これら2島は無人島で、高麗を見るように雲州より隠州を見るようである。 |
(6) | ならば即ち、日本の北西の地、この島をもって境とする。 |
「この島」の解釈
この隠州視聴合記は隠岐島を中心に、東西南北何があるかが書かれている。 ソウル大学社会学部のシン・ヨンハ教授は、上記の文章から(2)と(4)を抜き、(1)と(3)(5)を結んで、(6)の「この島」を隠岐島のことと解釈した。これでは著者の斉藤が、(2)でわざわざ隠岐島を基点とした意味が無くなってしまう。(1)から(5)を抜かさずに読むと、(6)の「この島」とは鬱陵島を指し、鬱陵島までが日本の領土として書かれているとの解釈が成り立つ。実際(3)(4)(5)(6)を一つの段落として考えると、「この島」とは、明らかに鬱陵島である。何故なら1693年から3年間にもわたって鬱陵島の領有権問題が日本と朝鮮で争われたことを説明する事は出来ない。隠州視聴合記は、鬱陵島問題が起こるずっと以前、1667年に書かれており、徳川幕府が日本漁民に鬱陵島への渡航許可を出して半世紀経過しているのである。
竹島松島之図 in 1724
幕命によって鳥取藩が、大谷、村川両家から鬱陵島周辺海域を聞き調べ作製した図に、竹島松島之図というのがある。この図は1724年に製図されたもであるが、松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。20世紀に入るまで、韓国ではこのような竹島(旧・松島)の2つの主島が書かれている詳細な地図は存在しない。
改正日本輿地路程全図 in 1779
作者の長久保赤水(1717-1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。この「改正日本輿地路程全図」は行基図を越えた画期的な日本図である。輪郭はかなり正確になり、距離や方角も正しく読み取れるようになっている。幕末に至るまで、他の日本図の手本となった。この"日本図"には竹島が描かれている。また、1833年に書かれた『新刻日本輿地路程全図』は改正日本輿地路程全図の系譜図である。
三国通覧図説 in 1785
韓国が、「日本も自ら竹島を朝鮮領と認識していた」として持ち出す資料の一つに、地理学者の林子平(はやししへい・1738-1793)が書いた『三国通覧図説』がある。この書には付属図の『三国輿地路程全図』がある。林は日本の地図だけでなく、朝鮮の資料も参考にしたと思われる。朝鮮半島の直ぐ傍に、島名の書かれていない島があるが、これは明らかに存在しない于山島である。そして日本海の中央に描かれている島は、当時竹島と呼ばれていた鬱陵島のことである。その竹島の直ぐ傍に小さな島が書かれているが、これはチュクドと考えるのが妥当である。林子平はまた『朝鮮八道之図』も描いているが、鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。
華夷一覧図 in 1790年代
木村蒹葭堂(きむらけんかどう・1736 - 1802)が作成した『華夷一覧図』という図は、大清を中心とする東半球図を紹介してる。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、日本と同じ朱に彩色した。この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っている。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフト、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分かる図である。また蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年刊)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩っている。
竹島密貿易事件 in 1836
1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。
通航一覧 in 1853
『通航一覧』は1853年、徳川幕府によって編纂された近世外交史料集成である。その中に「竹島密貿易事件」の記述があるが、ここに出てくる竹島とは現在の鬱陵島のことである。
皇国総海岸図 in 1855
水戸藩士の酒井喜煕(さかいよしひろ)が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から1855年に『皇国総海岸図』を作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録し、日本全域を表す総図で松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陸島)も記載されている。日本領土が黄色に塗られているのに対し、松島と竹島は着色がないが、福岡県沖の御号島(現在の沖ノ島)も無着色であるから、当時は無人島であることを指したものとみられ、朝鮮領という意味ではないと考えられる。また、隠岐周辺の地図では、竹島渡海の港であった福浦(現在の隠岐の島町)付近に「松島竹島ハ亥子ノ間二当ル」と、当時の地図では初めて両島に至る航路の方角を示す表記が見つかり、隠岐島との間で交流があったことをうかがわせる。
重訂万国全図 in 1855
幕臣で幕府天文方の山路諧孝(1777 - 1861)が1855年に著した『重訂万国全図』には「アルゴナウト島即ち竹島」「ダゲレト島即ち松島」の記述があり、これら2島とも日本と同じ色で着色されている。
新刊輿地全図 in 1861
佐藤政養が著した『新刊輿地全図』は幕末を代表するメルカトル図法による世界地図である。原図は1857年のオランダ製の航海用地図で、内容が詳しく正確なうえ、世界の主な都市・山川の一覧がある。佐藤政養は幕末から明治にかけての蘭学者・技術者で、勝海舟の塾で蘭学、測量術を学んだ。隠岐と朝鮮半島の中間に"タケ"と記述してある日本と同じ色で彩色された島がある。
増訂大日本輿地全図 in 1864
逸見豊次郎が1864年に著した『増訂大日本輿地全図』は、非常に大きな図であるが、これに竹島(鬱陵島)と松島(竹島)が記載されている。
竹島雑誌 in 1871
地理学者で探検家であった松浦武四郎(1818 - 1888)は、1871年に『竹島雑誌』を編述。この書は竹島(現在の鬱陵島)はもともと日本領であるとの見地から記述してある。吉田松陰も、安政の大獄で牢屋にぶち込まれた時に、弟子の桂小五郎に国防上竹島は重要拠点と書簡で主張している。
朝鮮全図 in 1873
日本の海軍水路寮は1873年に『朝鮮全図』を作製した。この図には、鬱陵島が蔚島として描かれ、蔚島と朝鮮半島の間に于山島が描かれている。この朝鮮全図には竹島は描かれていない。同年、明治新政府がウィーン万国博で展示した『L'Empire du Japon』には、松島(鬱陵島)と幻の竹島(アルゴノート)が日本領として描かれている。
日本地誌提要 in 1874
1874年に内務省地理寮地誌課の塚本明毅によって編纂された『日本地誌提要』には、日本海に2つの島があることが言及されている。
亜細亜東部輿地図 in 1875
日本の陸軍参謀局は1875年に『亜細亜東部輿地図』を作製した。この図には昔竹島(もしくは磯竹島)と呼ばれていた島が松島という島名で書かれ、この松島(鬱陵島)と朝鮮半島の間に存在しない島が竹島という島名で書かれている。その一方、鬱陵島と隠岐の間にあるはずのリアンクール島(現竹島)は描かれていないのが分かる。同年11月、同局が朝鮮八道全図、大清一統輿図、及び英米が刊行した測量海図などを基に『朝鮮全図』を作成し、『同図』は後年、農商務省図書館にも所蔵された。
朝鮮東海岸図 in 1876
海軍水路寮が1876年に発刊した『朝鮮東海岸図』はロシア海軍が作成した図が基になっている。この図には「オリウツ礁」「メコライ礁」というロシア名で、竹島を成す2つの主島、西島・東島が書かれている。
内務省の通達 in 1877
左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されている。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の"外一島"を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる積極的な証拠は無い。同年文部省が発刊した『日本全図』には現在の竹島はなく、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)があるのみである。文部省のみならず2年前に陸軍参謀局が調査した図にも、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)の記載があるのみなので、「外一島」が現在の竹島でないのは明白である。 この資料は国立公文書館に所蔵してある日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件で、下記はその文章である。 明治十年三月廿日 別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也 資料:竹島(鬱陵島)および外一島の放棄 |
軍艦「天城」の調査 in 1880
日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。もし西欧の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、我々は現在も竹島を松島と呼んでいただろう事は想像に難くない。(この調査後、外務省書記官の北澤正誠が竹島考証(上)(中)(下)を著した。
大日本府県分轄図 in 1881
一方で内務省地理局が1881年に作成した『大日本府県分轄図』の「大日本全国略図」に現在の竹島は描かれていない。また「島根・鳥取・岡山三県」の行政図にも竹島が描かれていない。海軍と内務省の情報交換が上手くいっていなかったと推測できる。
朝鮮国全図 in 1882
内務省地理局が明治15年に作成した『朝鮮国全図』には、鬱陵島が朝鮮の東限として描かれている。
鬱陵島へ渡航上陸禁止 in 1883
1881年、朝鮮は長らく実施していた鬱陵島に対する無人島政策を放棄した。同年朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求した。日本政府外務省は、すでに松島開拓問題(1876年)で鬱陵島を朝鮮領と認めていた。そして日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻した。このことは後年記録された『明治二十三年往復簿 一 内閣記録局』にも記載されている。鬱陵島への渡航禁止が出されたこの1883年には、3年前の調査が『水路雑誌』に纏められた。
寰瀛水路誌 in 1886
日本の海軍省は1883年『寰瀛水路誌(かんえいすいろし)』を発刊した。同水路誌は1889年に編纂が中断されるまで発刊。1886年3月に発刊された『寰瀛水路誌 大日本沿海北西部 第一巻下』に「隠岐全島」の記述があるが、竹島は全く載っていない。同年12月に発刊した『寰瀛水路誌 第二巻第二版 韓露沿岸』には鬱陵島と共に「リアンコールト列島」の名前で竹島の記述がある。
大日本水産会報告 in 1887
1887年に発刊された『大日本水産報告』の第65号では隠岐の漁業活動についての報告がある。冒頭に隠岐の島々の説明がなされているが、竹島に関する言及はない。韓国側はこれをもって竹島は日本領ではないと主張するが、これはあくまでも漁業活動についての報告である。
日本本州九州及四国附朝鮮 in 1891
日本海軍が作成した『日本本州九州及四国附朝鮮』には、竹島がリアンコールト岩として記載されている。
朝鮮水路誌 in 1894
日本海軍の水路部が刊行した1894年版の『朝鮮水路誌』に、朝鮮領の東限が鬱陵島であることを示す記述がある。同書は第一編から第四編の4つのセクションに分かれており、朝鮮領の東限は第一編、鬱陵島とリアンコールトは第四編に記述がある。韓国側は、朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになる。従って『朝鮮水路誌』をもって竹島は日本領であるという主張は成り立たないという。しかし日本と国境がある東限と、その先には何も無い南限を同列に扱ってはならない。『朝鮮水路誌』は厳然と竹島を韓国領ではないと定めているのである。また、この年に鬱陵島附近を描いた代表的な図を下記に掲示する。
『朝鮮全図』 | 柴田源三郎によって発行。鬱陵島の直ぐ東側に于山島がある。 |
松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。 | |
『朝鮮輿地図』 | 清水常太郎著。松島(鬱陵島)と半島との間に竹島(アルゴノート島)が記載されている。 |
『新撰朝鮮地理誌』 | 大田才次郎著。記述に「竹島、鬱陵島、于山島」とあるが附属図を見るとこの竹島はアルゴノート島である。 |
『朝鮮全図』 | 東京地学協会が編纂。5つの図の中で最も正確に描かれている。この朝鮮全図は鬱陵島までしか描かれていない。 |
『山陰新聞』 | 1894年1月14日の記事。この当時、山陰地方は正確に鬱陵島を竹島と称していたことが分かる。 |
『山陰新聞』 | 1894年2月18日の記事。「(鬱陵島は)周辺海岸は断崖として港湾に乏しく只だ東南に一小港あるのみ」「(鬱陵島民は)常に耕作を専業とす、漁業は絶て従事するものなく全く知らざるものの如し」の2つの文章から、この当時竹島(リャンコ島)を認識している島民は皆無だったことが伺える。 |
朝鮮全岸 in 1896
海軍水路部が発刊した『朝鮮全岸』には鬱陵島の東南に「リアンコールド岩」という名称で竹島が記載されている。これをもとに韓国は日本も独島を韓国領として認識してた証拠であるとしているが、これは領土権とは関係のない海図である。海図であるからこそ、『朝鮮全岸』というタイトルでありながら日本領である対馬などが記載されている。
河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図 in 1898
1898年に河合利喜太郎によって『亜細亜東部輿地図』が作成された。これは陸軍参謀局が1875年に作成した『亜細亜東部輿地図』と同じ系譜の図である。松島(鬱陵)と書かれた東側に竹島と書かれているが、経緯度が正確ではないのが分かる。
朝鮮開化史 in 1901
1901年1月に恒屋盛服によって著された『朝鮮開化史』の江原道鬱陵島の欄に、于山島、松島、竹島の3つの島名が出てくるが、これらは鬱陵島のことであると推測される。
外務省通商局編纂 通商彙纂 in 1902
1902年10月16日発刊された外務省通商局編纂『通商彙纂』第234号には、同月10日付けの釜山駐在日本領事館の本国への報告書のなかで、「韓国鬱陵島事情」と題して竹島に関する報告をしている。
韓海通漁指針 in 1903年1月
葛生修吉(くずうしゅうきち)が著した『韓海通漁指針』は、大韓帝国の漁業規則や漁業組合、沿海地理などの漁業に関する書籍である。江原道の節に鬱陵島の記述があるのは当然だが、竹島にも言及している。これを基に韓国は、日本は竹島が韓国江原道に属していたと認識していた証拠だと主張している。しかしこの書籍は領土を扱ったものではなく、漁業に関するものである。鬱陵島の記述の次に竹島のことが言及してあっても何ら不思議はない。むしろこの資料は日本にとって有利に働いている。韓国は1900年に出した勅令第41号のなかにある「石島」が、後に発音の都合から「独島」になったと言っているが、1902年前後には韓国人もヤンコ島と言っているとの記述があるからである。
小藤文次郎著 朝鮮全図 in 1903年4月
20世紀初頭に書かれた朝鮮の図に小藤文次郎が書いた『朝鮮全図』がある。この朝鮮全図には鬱陵島が描かれているが、現在の竹島は描かれていない。
中井養三郎の領土編入願い in 1904
1903年5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。だが、領有権が明確でないために他国とのトラブルなど、不測の事態を招く恐れがあった。間もなく過当競争による乱獲の弊害も出始めた。中井によると、1904年には山口県の岩崎という人物らが鬱陵島の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。 1907年「竹島及鬱陵島」という本を出版した奥原碧雲(おくはらへきうん 1873-1935)によると、中井は最初竹島は朝鮮領であると考えていたが、隠岐出身で農商務省水産局に勤めていた藤田勘太郎や牧水産局長に面会して、更に海軍水路部で竹島の所属を確かめた。水路部長は中井に対し、竹島の所属は確固たる証拠無く、日韓両国の本土からの距離を考えれば日本の方が近く、加えて日本人は竹島経営に従事しているので、日本領に編入するのが自然であるとの説得を受け、中井は1904年9月29日に竹島の領土編入と貸し下げを内務、外務、農商務省の三省に願い出た。
竹島の島根県編入 in 1905
日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示した。翌年の1906年4月8日、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・沈興澤に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。
現在韓国政府は、1905年の竹島編入は無効であると主張している。韓国の国定教科書、中学校『国史』(下)に掲載された、竹島関連の記述にも韓国の主張を垣間見ることが出来る。
「我が国を侵略しながら日本は獨島を強奪し、間島を清に与えた。獨島は鬱陵島に付属する島として、鬱陵島が三国時代に新羅の領土に編入して以後、我国の領土とされてきた。朝鮮の太宗時代に流民を防止するため、そこに住む人々を本土に連れ戻して、鬱陵島と獨島の管理が疎かになった。その後、粛宗時代に鬱陵島に出掛けた漁民安龍福が、不法に侵犯している日本の漁夫を追い払い、日本に渡って我国の領土であることを確認されることがあった。しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採し、魚を獲るなどしばしば侵犯した。だが、日本は露日戦争中に強制によって、日本の領土に編入してしまった。」(韓国国定教科書・国史より)
果たして本当に韓国政府が言うように、竹島は強奪され、強制によって日本に編入されたのだろうか?竹島編入時期の日本・大韓帝国・ロシアの関係を見てみよう。
中井がアシカ猟を開始 | 1903年05月 | |||
1904年02月06日 | 日露開戦 | 1904年02月20日の日露戦争実記 | ||
1904年02月09日 | 旅順攻撃 | 日韓議定書 | 1904年02月23日調印 | |
1904年05月01日 | 鴨緑江渡河作戦 | |||
1904年08月10日 | 黄海海戦 | |||
1904年08月14日 | 蔚山沖海戦 | |||
1904年08月07日 | 旅順総攻撃Ⅰ | 第1次日韓協約 | 1904年08月22日調印 | |
1904年08月24日 | 遼陽会戦 | |||
1904年09月19日 | 旅順総攻撃Ⅱ | 中井から政府へ編入願い | 1904年09月29日 | |
1904年10月08日 | 沙河会戦 | |||
1904年12月 | 203高地奪取 | |||
1905年01月12日 | 旅順陥落 | |||
1905年02月20日 | 奉天会戦 | 竹島の編入 | 1905年02月22日決定 | |
1905年05月26日 | 日本海海戦 | 1905年02月24日の報道 | ||
1905年07月30日 | 樺太全土を制圧 | 1905年07月03日の報道 | ||
1905年08月12日 | 第二次日英同盟調印 | 大韓帝国の朴斉純外相が条約を非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議 | ||
1905年09月05日 | ポーツマス条約調印 | 第2次日韓協約 | 1905年11月17日調印 |
年表を見ると、戦争と並行して韓国に対する干渉が強くなっていっているのが分かる。これだけを見ると、確かに竹島の編入は日韓議定書からの連続した侵略過程とも採らえることが出来る。しかしよく考えて頂きたい。その頃(1905年2月22日)の韓国は歴然とした独立国(大韓帝国)である。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、1905年11月17日。従って強奪でも強制でもなんでもない。大韓帝国は主張できる立場にあった。実際韓国の外相は第二次日英同盟に関して両国に抗議している。また編入はマスコミにもよっても知らされた。更に言うなれば、中井養三郎が竹島でアシカ猟を開始したのは日露戦争よりも前である。竹島の編入に中井養三郎が意図的に加担したとうのは事実無根であることがわかる。
資料:『日韓議定書』 - 1904年2月23日締結。
資料:『明治三十七八年海戦史 第一部 巻十一』
資料:『明治三十七八年海戦史 第一部 巻十、十一 附表及附図』
資料:『明治三十七八年海戦史 第二部 巻一』
資料:『明治三十七八年海戦史 第二部 巻二』
資料:『明治三十七八年海戦史 第四部 巻四』
資料:『通信に関する件』 - 竹島に望楼建設の為の軍艦派遣訓令
資料:『第75号 竹島仮設望楼位置図』
資料:『電線関係作戦班』 - 松島(鬱陵島)と松江の回線試験
資料:『軍艦新高行動日誌』 - 「リヤンコルド岩、韓人之を獨島と称す」の記述あり。
資料:『軍艦対馬戦時日誌』 - 副艦長と軍医長が竹島に上陸。
資料:『明治38年5月・6月の官報』 - 2月に竹島を編入したにも関わらず、日本は5月の官報に「リヤンコルド岩」と記載。
資料:『朝日新聞』 - 5月30日の記事に「リヤンコールド岩」と記載。
資料:『朝日新聞』 - 6月05日の記事は日本名で「竹島」と記載。
資料:『電報新聞』 - 5月31日の記事に「リヤンコルド岩」と記載。
資料:『通商彙纂 第50号』 - 日露戦争中の1905年7月31日、釜山駐在領事館が「鬱陵島現況」の中で竹島を報告
資料:『山陰新聞』 - 日露戦争中の1905年8月6日、島根県知事一行が竹島に向けて出港準備
資料:『山陰新聞』 - 日露戦争中の1905年8月22日、島根県知事一行が竹島上陸
資料:『韓国新地理』 - 日露戦争直後に著された。「ヤンコ島」が韓国江原道鬱陵島の説明中にある。
資料:『地学雑誌 200号』 - 1905年8月
資料:『地学雑誌 201号』 - 1905年9月
資料:『地学雑誌 202号』 - 1905年10月
資料:『地学雑誌 210号』 - 1906年6月
大日本管轄分地図 島根県全図 in 1908
安藤力之助が書いた『大日本管轄分地図 島根県全図』には隠岐の北西に「桂島」という島が描かれている。竹島と同じ方角だが、距離的に隠岐に近過ぎるため更に研究する必要がある。
東亜輿地図 in 1909
竹島編入4年後の1909年に、陸地測量部(現在の国土地理院に相当)が発行した地図『東亜輿地図』には、竹島が島根県に属していることを示している。この東亜輿地図は100万分の1の縮尺で、シベリア東部、日本、中国南部までの東アジア全域を241区域に分けている。竹島が書かれてある図は松江区分のページで、鬱陵島には「韓国江原道」、竹島には「島根県隠岐」と行政区が記載してある。
日本水路誌 第四巻 本州北西岸及北岸 in 1916
海軍水路部が発刊した『日本水路誌 第四巻 本州北西岸及北岸』には、隠岐列島に竹島の記述がある。経緯度、島の概要、夜間航行においては時として危険であることなどが記載されている。翌年には朝鮮総督府が作成した『鬱陵島図』が発刊、更に翌年の1918年にも『鬱陵島図』を発刊した。
日本水路誌 第十巻上 朝鮮東岸及南岸 in 1920
1920年4月に発刊された『日本水路誌 第十巻上 朝鮮東岸及南岸』には、「鬱陵島一名松島[Dagelet Island]」として、鬱陵島は別名松島と呼ばれ、欧米ではDagelet Islandという名で呼ばれているとの記述があり、また、竹島に関しては欧米でLiancourt Rocksの名で呼ばれ、島の詳細が記載されている。また同年7月には『日本水路誌 第十巻下 朝鮮東岸及南岸』には、獨島という名称の島が出てくる。これは現在韓国が主張している独島ではない。これにより、独島という名称は、日本で言えば"大島"のようなありふれた島名であることが分かる。
日本陸軍測地測量部の図 in 1930
1930年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。
しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。
竹島特集記事 in 1934
朝日新聞が1934年6月28日から7月8日にかけて、竹島に関する記事を特集で掲載している。アシカ猟やアワビ漁をしているのが分かる。
朝鮮現勢便覧 in 1935
朝鮮総督府が作成した『朝鮮現勢便覧』では、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。同年、民間の地図会社が作成した『朝鮮全図』には鬱陵島までが描かれていて、竹島は記載されていない。同じく1935年に民間の出版会社が発行した『朝鮮全図』は鬱陵島と竹嶼(ちくしょ)が書かれている。竹島が朝鮮全図にないのは当然である。
結論
現在韓国では、日本の韓国侵略の始まりは竹島の日本編入(1905年)からであると主張しているが、その当時から朝鮮併合の意思があったなら、日本政府は、領土的には何の価値も無い竹島ではなく、人が住める鬱陵島の主権を奪ったはずである。ところが日本政府は江戸幕府と同様に一貫して鬱陵島は朝鮮領とした。 また、下の写真のように、竹島は主に西島と東島から成り、「竹島松島之図」などには島の詳細が描かれているが、その一方で韓国は、20世紀に入るまで正確かつ詳細な竹島の地図を持ち合わせていない。これは実効支配をしたことのある日本と、全く無い韓国との違いを端的に表している。
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